他者と分かり合うこと1

他者と分かり合うこと。

これは人間にとって永遠に渡る問題であろう。

人と人との間にある溝は実際的な物理的距離を越えたところに意味をもつ。人がその溝を乗り越え、他者を理解し分かり合うことは可能なのだろうか。人は人の悲しみを、苦しみを、孤独を理解し得るのだろうか。

 

僕は他者を理解するのは無理だと思っている。

他者は僕とは違う世界を持って生きている。それを仏教の世界では「器世界」というらしい。全部がバラバラな世界=パースペクティブを持っているのではなく、同じ境涯の人たちがある程度、部分的に「器世界」を共有しているというのだ。僕はこれと同じようなことを高校生のころから延々と考え続けていた。僕は高校生の頃は三年間図書委員を務めていて、そのときに図書委員同士でビブリオバトル(書評大会みたいな)をした。僕はそのとき宮下奈都さんの『静かな雨』を紹介したんだけれど、僕がどれだけ頭を捻って考えても、僕の確かに感じたぬくもりのような何かについて全てを掬い尽くせなかった。雨の降る昼下がり、窓にはたくさんの水滴が流れ、雨音が部屋の空間をゆっくりと静かに沈めてしまうようにぽつぽつとなるのを聞くとも知れず僕は聞いていた。掬い尽くせない感情は、そのまま僕と彼/彼女にそれ相応の射程を作り出し、高くも低くもないが通過の許されない壁を建設させた。僕はそれを偽りの、傍から見ればそれらしく、やはり綺麗であるような言葉でもって表現したくはなかった。自分ですら他者であるのに、そんな自分にすら背を背けるような真似は僕には許されなかった。

 僕が読んだ通りの感情をまったく同じように他者が感じるのは不可能である。それが高校二年生の僕が生み出した、生きていくために必要な一つの命題であった。

 

 

 

 人は何かについて思考するとき、議論するときのは、必ずといっていいほど二元論を使用する。それは古代ギリシアから変わらず使われるものであり、夜に空を這い回る蛾が光源に激突を繰り返すことや木になったリンゴがまっすぐに地面に落ちるのと同じように当たり前のことである。僕は当然それをしっかりと認識していたのだった。

 しかし、その僕にとっても当たり前のように思われた二元論にも一つの亀裂が入ることになる。

 二元論は必ず対立を産むものである。正負、左右、上下、といったように二項対立とは極と極をつくることにとって語り合うべき狭間を創り出すのである。そしてこの極と極は分かり合えないものである。N極とS極のようにそれらは近づこうにも近づけないのである。まるでヤマアラシのジレンマのように。

 僕にはその絶対の分かり合えなさが堪えきれなかった。

 

 

あーーー、レポート終わんないし、語るべき言葉が見えなくなったのでさようなら。

また。