閉じていることについて(1)

この間、久しぶりに作品を完成させた。

 

完成させたと書いたのは、未完成のものであれば、山ほど書いているからだ。しかし、そのどれもがなかなか完成までは行きつかなかった。土に植えた種のすべてが、芽を出し、葉をつけ、花を咲かせることがないように。

 

完成させるときはあっという間だった、とはいっても、原稿用紙二枚書くのに二時間もかかった。彼らが何を語り、何を見るのか。それらが僕にわかるにはそれくらいの時間が必要だった。

 

ここ二年ほど、様々な本を読んでいたけれど、特に僕が好きな作家、堀辰雄福永武彦なんかを読んでいると、作品というのは、それが制作されなければならず、どこまでも自己還元的である、という当たり前な諸条件を前提として、捧げるべき人に捧げられるものではないかという考えがすとんと落ちて来た。僕にはそれが腑に落ちた。

 

今回出来上がった作品も捧げられるべくして出来上がったものだ。そして、それは行くべき場所に行くことができた。自分のもとに置いていたら、たくさん愛でていただろうが、それではきっと閉じてしまうだろう。僕は親を知らないが、子供を手放せなかった親は知っている。それは親自身にとっても、子供にとってもあまりに毒だ。

 

しかし、自分の作品を愛するというのは悪いことばかりではないのだろう。ムンクは自らの作品が買われて手放さなければならなくなったとき、それがお気に入りなときには模写してアトリエに残していたという。僕が思うに、ムンクは偉大な作家である。

 

僕は記憶の中にある作品を愛し、今あるべきところにいる作品とそれを読む人を想う。

 

作品が閉じているのはよくないが、だからといってすべてに対して開かれていればいいというわけではないのだろう。それはまた人も同じように。

 

あゝ、またどこかで星が堕ち、鳥が鳴いている。

海鳴りを聴きながら、ベンチの下で猫が円になって眠っている。

清少納言、tohji、雷

とりたてて書くこともないけれど、ないならないなりに書いてみようと思ったので書いてみる(テスト勉強中だからかな、それとも友達の文章にそそのかされてかな)。

 

今年は恐ろしく残暑が長く、いつまでも30度以上の夏日が続いた。俺は夏が本当に嫌いだから、はやく冬になってほしいなと、気温が低くなって、空気の密度が薄く、魂の彷徨う余白のある季節になるのを待った。夕方に突然雨と雷が降った金曜日があった。講義が終わって、眠かったから教場で眠ってから外に出ると馬鹿みたいに大きな粒でもって雨がたくさん落ちていった。参ったなーとおもったけど、傘もないし顔の上に手をやって小走りに帰るしか手段はなかった。その日は随分と雨と雷の荒々しい音が俺の心を占めていた。ベッドの上でゴロゴロしながらゴロゴロとなる雷をきいてソワソワした。その次の日も昼の手前付近まで雨が降った。気温は雨のせいで低く、久しぶりに長袖に手を通し、運動をした。暑さで動けなくなるなんてことは起きなかった。身体の負担もいつもよりずっと少なかった。昼はお出かけをして、女の子とゲテモノを食べたりなんかして(ゲテモノは意外に食べられる)、部屋に帰ってからはしばらく試験勉強なりなんなりをしながら時間が流れるのをぼーっと眺めていた。日付が跨いだあたりでふと煙草が吸いたくなって、真っ暗な非常階段に出た(部屋では吸えないんだ)。半袖に半ズボンで外に出ると恐ろしく寒かったので、いけないこんな寒さじゃ煙草なんて落ち着いて吸えないと思い、慌てて部屋に駆け込んでジャンパーを羽織った。これで外でも寒くない。tohjiを聞きながら煙草を三本吸った。キックの弱い煙草。angel.snowboarding.木々の向こう側に見える道を車が時折走っていくのを眺めながら、冬が着実に近づいているのを感じて嬉しくなった。清少納言は「冬はつとめて(冬はやっぱり早朝でしょ)」なんて書いていたけれど、いいよね実際。俺は三時過ぎあたり、四時にはならないような時間の静けさが好きだけど、早朝がいいのもよくわかる。そこらへんはつながっている。道がある。深夜の寒々とした非常階段から平安時代のまだ人が眠る早朝に闇から立ち上がる光に目を向ける清少納言の存在する部屋まで。

 

そろそろ試験勉強に戻らなきゃ。三十分もこんな文章を使っちゃった。ミスった。また今度。バイバイ。

他者と分かり合うこと1

他者と分かり合うこと。

これは人間にとって永遠に渡る問題であろう。

人と人との間にある溝は実際的な物理的距離を越えたところに意味をもつ。人がその溝を乗り越え、他者を理解し分かり合うことは可能なのだろうか。人は人の悲しみを、苦しみを、孤独を理解し得るのだろうか。

 

僕は他者を理解するのは無理だと思っている。

他者は僕とは違う世界を持って生きている。それを仏教の世界では「器世界」というらしい。全部がバラバラな世界=パースペクティブを持っているのではなく、同じ境涯の人たちがある程度、部分的に「器世界」を共有しているというのだ。僕はこれと同じようなことを高校生のころから延々と考え続けていた。僕は高校生の頃は三年間図書委員を務めていて、そのときに図書委員同士でビブリオバトル(書評大会みたいな)をした。僕はそのとき宮下奈都さんの『静かな雨』を紹介したんだけれど、僕がどれだけ頭を捻って考えても、僕の確かに感じたぬくもりのような何かについて全てを掬い尽くせなかった。雨の降る昼下がり、窓にはたくさんの水滴が流れ、雨音が部屋の空間をゆっくりと静かに沈めてしまうようにぽつぽつとなるのを聞くとも知れず僕は聞いていた。掬い尽くせない感情は、そのまま僕と彼/彼女にそれ相応の射程を作り出し、高くも低くもないが通過の許されない壁を建設させた。僕はそれを偽りの、傍から見ればそれらしく、やはり綺麗であるような言葉でもって表現したくはなかった。自分ですら他者であるのに、そんな自分にすら背を背けるような真似は僕には許されなかった。

 僕が読んだ通りの感情をまったく同じように他者が感じるのは不可能である。それが高校二年生の僕が生み出した、生きていくために必要な一つの命題であった。

 

 

 

 人は何かについて思考するとき、議論するときのは、必ずといっていいほど二元論を使用する。それは古代ギリシアから変わらず使われるものであり、夜に空を這い回る蛾が光源に激突を繰り返すことや木になったリンゴがまっすぐに地面に落ちるのと同じように当たり前のことである。僕は当然それをしっかりと認識していたのだった。

 しかし、その僕にとっても当たり前のように思われた二元論にも一つの亀裂が入ることになる。

 二元論は必ず対立を産むものである。正負、左右、上下、といったように二項対立とは極と極をつくることにとって語り合うべき狭間を創り出すのである。そしてこの極と極は分かり合えないものである。N極とS極のようにそれらは近づこうにも近づけないのである。まるでヤマアラシのジレンマのように。

 僕にはその絶対の分かり合えなさが堪えきれなかった。

 

 

あーーー、レポート終わんないし、語るべき言葉が見えなくなったのでさようなら。

また。

 

必然の産物と気持ちの悪い空虚

書かれるべき言葉、語られるべき言葉のようなものが存在すると僕は考えている。

それは場によって要請された必然の産物。

言葉だけではない。

絵画や写真、音楽、身体の動きまであらゆるものにその絶対的必然のようなものが備わっている。言うなれば、表現一般凡てに対して。

しかし、その必然から逸脱したものは純粋な表現、制作物とは言えない。

それは表現される必要があって表現されたものではないからだ。いや、表現すらもしていないのかもしれない。くだらないラブストーリーを映したドラマ。何にも書かれちゃいない自己啓発本。それっぽいメロディーに、それっぽい歌詞を載せた草臥れた歌。自己満足的な会話(これも会話とは呼べないだろう、一方通行になってしまっているのだから)。

これらは極めて空虚である。中身のない救われようのない嘘だ。人にアピールされる類の偽善だ。

こういう空虚に身を埋め続けているといづれ自分の居場所を見失い途方もない闇に身を投げた後、自己防衛のために自らの嘘でもって、空虚で空虚を覆うようにして、嘘で嘘を覆うようにして、理論武装をしなくてはならなくなってしまう。そうなるともうおしまい。底なしの井戸になってしまう。

僕はこういう空虚な人が嫌いだ。徹底的に嫌いだ。

こいつらは他者の領域に無断で侵入して、荒らすだけ荒らして知らぬ顔でまた他の庭を探しに行く。制作をするために傷付くのは構わない。人と分かり合うために双方で傷つけあうのも構わない。でも、こういう人間に無責任に踏み荒らされるのは違う。絶対に違う。

 

空虚にならないためにどうすればいいのだろうか?

 

答えは割に簡単だと思う。

 

それは他者を、他物をリスペクトすることだと思う。愛してやること。

そうすればくだらない嘘や、空っぽな理論武装なんかで接することがないはずだ。

 

ヤッカラ人は嘘を嫌うんだ

ヤッカラの人間は嘘に敏感と言われている。

 

身体の裡にあったもの

 心の中では、何かが燃えているような気がする。それは魂なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。それは赤く燃えているのかもしれないし、青や緑、黄色や紫みたいな色彩豊かな燃え方をしているのかもしれない。大きく、激しく、ぱちぱちと燃えているものもあれば、音を立てずに静かに、小さく燃えているものもあるかもしれない。とはいえ、人それぞれにその人なりの炎があり、それを糧にして、日々の生活を送っているように私には思える。

 

 この頃、私の中にあった炎がフッと消え去ってしまったような気がする。つまり、中心に糧がなく、身体の真ん中に大きな空洞が、底の到底見えないような深い闇が存在している。

 

 それは徐々に私の身体と精神を蝕んでいく。喉を押さえつけて呼吸を難しくする。内臓にものを入れまいとして吐き気を催させる。脳の表面に近いところ、側頭骨のすぐ下の辺りを寄生虫がギュルギュルと這いずっている。誰かが耳のすぐ横でしきりに何かを囁き続ける。

 

 私の意思に関係なく、カミのような存在からの命令で、強制的に自信の客体化が行われている。自分自信が果てしなく遠く感じる。つい最近まで私自身であり、一体となっていた私の身体は今となっては手すら届かないほどに遠くに去ってしまった。

 

 まるで海を眺めているようだ。海は渚を行ったり来たりしながら唄をうたう。それはどこか心臓の拍動に似ている。私たちは海より生まれたのだ。そして死んだら海に還る。海は生物の源である。

 

 海は絶対的孤独の象徴である。同時に、永続的絶望そのものでもある。

 

 海とは死である。

 

 私も海に還ろうとしているのだろうか。

 

ジェフ・ベックが死んだ。

ジェフ・ベックが死んだ。

細菌性髄膜炎だったらしい。

細菌性髄膜炎にもいろいろの種類があるが、いったいそのどれにかかったのだろうか。概ね、肺炎球菌あたりだと思うのだが。医学生として一通り触った範囲だからすこし気になってしまう。

ジェフ・ベックが死んだ。

彼を初めて聴いたのは確か高校一年生の頃だったと思う。その頃の僕は本気で音楽を突き詰めようとして、有名なギタリストのアルバムを片っ端から聴いていた。当然三大ギタリストと呼ばれるジェフ・ベックを通過しないわけがない。

彼を初めて聴いた時の印象は今でも鮮明に覚えている。それは「わからない」だった。どうやってその音を奏でているのか僕には皆目わからなかったのだ。最初に聴いた時はギターの音だとは思わず、聴きのがしてしまった。しかし、聴けば聴くほど味わい深く、ジェフ・ベック自身がだれよりも音楽を楽しんでいるのだとわかってきて、それが僕にとっては、まるで唯一の理解者のような、ともに音楽を楽しんでくれる友達のような感覚だった。今になってみると偉そうなんだけど、昔の自分は確かにそう感じていた。

つまり、ジェフ・ベックというのは一人のギターヒーローやアイコニックな存在というよりは、もっと身近な親しみ深い良き理解者の一人であったように思う。だからこそ、彼の死はほかの誰の死よりも認めにくい出来事に感じられてならない。変な話だが、絶縁してしまった肉親よりもいなくなってほしくない存在な気がする。

今日1/12の10時頃に彼が旅立ったという記事を読んでから言いようのない、ぼんやりとした虚無感に僕は襲われている。それは時間を増すごとに、彼の演奏を聴き、また、彼の演奏を生で聴きにいったあの懐かしい高校生の時代を思い出せば思い出すほどに増大し、その加減は底を知らずに、無秩序に僕の庭を踏み荒らし、ドアを蹴破って、僕の深奥に闖入してきたのだった。

ジェフ・ベックが死んだ。

人が一人死んだ。確かにそれだけのことなのだ。しかし、確実に僕にとってはそれだけのことではなく、彼との折り合いをどうにも付けられずに崩壊する精神とともに進行する生活にまた寄り添っていかねばならないのだ。

ジェフ・ベックが死んだ。

偉大で、この世でもっとも音を楽しんだであろう少年が少年のまま還るべき場所に戻って行ってしまった。

ジェフ・ベックが死んだ。ジェフ・ベックが死んだ。ジェフ・ベックが死んだ。

嫌いな人

歳が明けた。2023年が始まるらしい。友達からの「あけましておめでとうございます」ラインで沸々と実感が湧いてくる。今年はどんな年になるのだろう。

 

嫌いな人がいる。

誰にも嫌いな人はいると思う。人間である限り、人がそれぞれの人生を歩む限りにおいて人と人とは分かり合えない。分かり合える僅かで永遠の部分を私たちは愛してやまないのだと思う。

しかし、朝起きて顔を見るだけで嫌になる、殴りたくなる、殺したくなる人はいないだろう。その人は僕に何か危害を加えたりだとかしたことは全くない。実習やイベントごとで関わったこともほとんどない。だから、そもそも嫌いになるきっかけのようなこともない。では、なぜ嫌いなのだろう。

 

理由①顔がムカつく

初めにあげられる理由は顔だ。おいおい印象かよ、と思うかもしれないが、残念、印象はかなり大事だと思っている。だって、女の子を好きになるときに顔を見ない人はいないし、かわいくない子に惹かれるときだって、女の子の鼻筋や口元、耳たぶとかに抵抗できないような磁力を感じているはずだ。彼の顔は本当に最悪なんだ。マジで。見るだけでムカつくような顔。だめだ、話が堂々巡りしている。

 

理由②話し方がムカつく

次は話し方。顔がムカつくのと大して変わらないのだけれど。

彼の話し方はどこか人に媚びているような、下から上へ舐めるようなぞっとするようなものなんだ。これを読んでいる人の周りにも一人はいると思う。ってか、絶対いる。ただほかの人はそれに耐えたり、自分の優しさでなんとかしているんだと思う。僕には無理だった。ただそれだけの話なのかもしれない。

 

理由③存在がムカつく

いよいよ馬鹿になってきているみたいだ。

 

これ以上考えてみても埒が明かないような気がする。結局嫌いな奴の嫌いな理由なんて考えない方がいいに決まっている。考えれば考えるほど蟻地獄にハマるみたいにどんどん思考が落ち窪んでいって、自分だけが嫌な気持ちになっていく。

 

年越し早々何を書いてるんだまったく。やれやれ。