閉じていることについて(1)

この間、久しぶりに作品を完成させた。

 

完成させたと書いたのは、未完成のものであれば、山ほど書いているからだ。しかし、そのどれもがなかなか完成までは行きつかなかった。土に植えた種のすべてが、芽を出し、葉をつけ、花を咲かせることがないように。

 

完成させるときはあっという間だった、とはいっても、原稿用紙二枚書くのに二時間もかかった。彼らが何を語り、何を見るのか。それらが僕にわかるにはそれくらいの時間が必要だった。

 

ここ二年ほど、様々な本を読んでいたけれど、特に僕が好きな作家、堀辰雄福永武彦なんかを読んでいると、作品というのは、それが制作されなければならず、どこまでも自己還元的である、という当たり前な諸条件を前提として、捧げるべき人に捧げられるものではないかという考えがすとんと落ちて来た。僕にはそれが腑に落ちた。

 

今回出来上がった作品も捧げられるべくして出来上がったものだ。そして、それは行くべき場所に行くことができた。自分のもとに置いていたら、たくさん愛でていただろうが、それではきっと閉じてしまうだろう。僕は親を知らないが、子供を手放せなかった親は知っている。それは親自身にとっても、子供にとってもあまりに毒だ。

 

しかし、自分の作品を愛するというのは悪いことばかりではないのだろう。ムンクは自らの作品が買われて手放さなければならなくなったとき、それがお気に入りなときには模写してアトリエに残していたという。僕が思うに、ムンクは偉大な作家である。

 

僕は記憶の中にある作品を愛し、今あるべきところにいる作品とそれを読む人を想う。

 

作品が閉じているのはよくないが、だからといってすべてに対して開かれていればいいというわけではないのだろう。それはまた人も同じように。

 

あゝ、またどこかで星が堕ち、鳥が鳴いている。

海鳴りを聴きながら、ベンチの下で猫が円になって眠っている。