必然の産物と気持ちの悪い空虚

書かれるべき言葉、語られるべき言葉のようなものが存在すると僕は考えている。

それは場によって要請された必然の産物。

言葉だけではない。

絵画や写真、音楽、身体の動きまであらゆるものにその絶対的必然のようなものが備わっている。言うなれば、表現一般凡てに対して。

しかし、その必然から逸脱したものは純粋な表現、制作物とは言えない。

それは表現される必要があって表現されたものではないからだ。いや、表現すらもしていないのかもしれない。くだらないラブストーリーを映したドラマ。何にも書かれちゃいない自己啓発本。それっぽいメロディーに、それっぽい歌詞を載せた草臥れた歌。自己満足的な会話(これも会話とは呼べないだろう、一方通行になってしまっているのだから)。

これらは極めて空虚である。中身のない救われようのない嘘だ。人にアピールされる類の偽善だ。

こういう空虚に身を埋め続けているといづれ自分の居場所を見失い途方もない闇に身を投げた後、自己防衛のために自らの嘘でもって、空虚で空虚を覆うようにして、嘘で嘘を覆うようにして、理論武装をしなくてはならなくなってしまう。そうなるともうおしまい。底なしの井戸になってしまう。

僕はこういう空虚な人が嫌いだ。徹底的に嫌いだ。

こいつらは他者の領域に無断で侵入して、荒らすだけ荒らして知らぬ顔でまた他の庭を探しに行く。制作をするために傷付くのは構わない。人と分かり合うために双方で傷つけあうのも構わない。でも、こういう人間に無責任に踏み荒らされるのは違う。絶対に違う。

 

空虚にならないためにどうすればいいのだろうか?

 

答えは割に簡単だと思う。

 

それは他者を、他物をリスペクトすることだと思う。愛してやること。

そうすればくだらない嘘や、空っぽな理論武装なんかで接することがないはずだ。

 

ヤッカラ人は嘘を嫌うんだ

ヤッカラの人間は嘘に敏感と言われている。