さみしさとは
さみしさというものはどうやら一つではないらしい。
「さみしい」を漢字では「寂しい」とも「淋しい」とも書く。「さびしい」とも言う。
また、人はどんなに楽天的な人間であれ、さみしさを自らの胸の内に抱いたことがあると思う。僕も抱いた。それを優しく包むようにして抱くこともあれば、潰してしまうくらいに強く抱くこともある。笑顔で接するときもあるし、泣いたり怒ったり妬んだり様々で。
誰もいない部屋を通り抜ける風がカーテンを揺らしている。
ここにさみしさがあるような感じがする。
子供たちが遊ぶ公園に錆びれた遊具が何年も佇んでいる。
ここにもさみしさがある。
家族をしらない男がまともな家族を目撃する。
ここにもさみしさがある。
宇宙と私、一つの人生。
ここにもさみしさがある。
疎外感、孤独、有限性と無限性。これらがさみしさに関連しえる鍵のように僕は思う。僕たちは絶対にさみしさからは逃れらない。さみしさは生と死の中間に存在していて、どんなときも僕らの隣で僕らを嘲笑おうとする。それは天からの罰なのだろうか。それともこれも生存政略の一種で、自然淘汰のうちに残ったもの?わからない。
柳宗悦はこんなことを言っている。
悲しさは共に悲しむものがある時、ぬくもりを覚える。悲しみことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。『南無阿弥陀仏』
さみしさと悲しさはちょっと違うけれど、さみしさも同じようにさみしさを抱くものこそがほかのさみしさを抱くものに寄り添えるのだと思う。だから、僕はみんなが抱いている様々のさみしさを大切にしてほしい。それは君がいつか出会うだろう大切な誰かのさみしさに寄り添うために必要だから。
アシタカは、
「ともに生きよう」
と言った。
これは強い。でも、この強さを後ろから支えているのはさみしさなのかもしれない。