2021/5/5

この間、人生で初めて読書会に参加した。課題本は安吾の『桜の森の満開の下』だった。何周もした本だったし、想い入れの深い作品でもあった。

 

僕はかなり準備をして臨んでいった。読書会の前に課題本を2周して、印象に残った点や疑問点を抜き出していった。このあたりからこの本に対してこんなアプローチでいいのだろうかという想念がもやもやと芽生え始めた。

 

桜の森の満開の下。傑作だ。これ以上の作品はそうそうにないと個人的には思うし、ある種の人間達も同じことを思うんじゃないかと思う。この本には圧倒的な深さがある。そこらへんの作品が到達しようもない深さ。よく井戸の深さを確かめるために石を落とすことがあるけれど、本の深さを確かめる井戸があるとすれば、きっとこの本の井戸は音を鳴らさない。きっとね。

 

そいつの原因を確かめること。美と畏怖の相関が齎すブラックホール的な観念とやらの観測。それはおそらく不可能なんだよ、はじめから。

 

それでもそれを飲み込んだ上でこの本に対して挑むことは素晴らしいことだと思う。道化た笑みを浮かべながらでもいいし、引き籠もりの哲学者みたいに一生懸命になってもいい。よく分かんなくなってきたから、時計の針を正しくすすめてみる。

 

さて、読書会が始まった。

各人が自己紹介をした上で各々の感想や印象に残った点、それから考察について話す。

 

僕も始めはウキウキしていて、なんて楽しい場所なんだろう!って考えていた。でも一時間あたり経って場に慣れてるくると、どうだ?見え方が変わってくる。ただ自分の解釈を話すことでオナニーしてるやつがたくさん現れた。なんだか吐き気がした。気持ち悪い。でも、そのとき僕はこの気持ち悪さは自分がこの人たちとは異質だから感じてしまうものなんだと解釈してしまっていた。実際そんなんだけど、なんていうだろう。それは仕方のないことなんだ。人は違っている。全然違っている。絶対的真実。でもそれが虚しくて虚しくて仕方なかった。また僕は一人だった。

 

異質さの原因はそもそもの僕の性質からくるものだった。僕は読書に対して僕自身の根幹の思想(背骨)を辿るものと見ている。だから、本のテーマとかはっきり言ってどうでもいいし、表面的で自分勝手なくそ考察は嫌いだった。本にそれらしい宗教性を与えて、自分をその宗教に殉ずる正教徒だと妄想する。くそだ。まるっきりのくそだ。

 

でも、それは仕方ないことだった。違っているから。

 

多分こういうことを簡単に飲み込めれば大人になれるんだろうな。わかっているけれど、僕にはそれがうまくできなかった。やっぱりわかっていても哀しいな。

 

なんか支離滅裂だけど、書ける量が増えてるね。ウケる。ばいばい。